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こども

 

カブトムシの変態を笑うなかれ、人間だって随分と姿形が変わっていく生き物です。誰もが一度は通る子どもという時代。どの辺りからが大人で、どの辺りまでが子どもなのかなんていうのは自分では定かじゃないんですけど、親の目からしたら、子どもはいつまでも子どものままだったりします。

 

僕がいまだにサビ抜きじゃない寿司は食べられないと思ってます。いや、確かに、習性とか言動とか興味の対象は相変わらず子どもですし、ワサビ嫌いの大人だって居るとは思うんですけど、明らかに小さい時の僕のままの認識なんです。おでんの辛子もしかり。

今年で28歳になる僕の兄には、小学2年生になる娘が居ます。つまるところ、8歳上の兄は20歳直前ぐらいに奥様に種を仕込んだってことなんですけど、それって、ちょうど今の僕ぐらいの年齢じゃないですか。そういう年齢の人間をつかまえて「わさびは辛いけど平気なの?」なんて言うとはおかしな話です。

 

 

2人の人間が造り出した人造人間、子ども。それゆえに親は勘違いを起こしてしまいがちです。自分の思い通りに子ども自体を形成しようとしたり、子ども自身の行動を規制しようとしたり。書類上では自分の支配下にあるように思えても、常にそれと自分は一体ではなく、異なる存在なんです。それなのに、どうやら親であるという変更の効かない立ち位置に甘んじてしまう側面が強いようです。もっとも、これは僕がまだ親という立場を経験したことがないから言えるんだとは思うんですけど。

 

多くの親は子どもに大きな期待をかけています。子どもがそれとは違う道を歩もうとした時に、勝手に期待をしておいて落胆するだけなのに子どもの選択に悪を見い出すものです。自分の思い通りに行かなくて当然なのに、親という立場に甘えてしまう。

 

僕が思う理想の親像というものを一言で話せば、挫折を与えられる親、の一点に尽きます。例え結果を自分が知っていても、敢えて子ども自身に挫折を味わわせられる親。まぁこう文章にしてしまうと悪意すら感じますけど、経験論で片付けず、きちんと本人が経験した上で善し悪しの判断を付けさせる、といったところでしょうか。

 

例えば、あれですよ。前にもopinionの中のエッセイ(The magic tools of admiration brought me to be frustration.)でも書きましたけど、デパートなんかで売っているお手軽魔法グッズ。手品にはタネがあるものです。本当にそういう不思議な力が世の中に存在したとて量産してお手軽な金額で売り出しているわけがありません。

そんな世の理をまだ知らぬ児童に口頭で教え諭すのではなく、意味深な口元の笑みと挫折を与えられるような親。それが僕の父親だったりします。

 

 

しかして僕の母親は。

 

大人の価値観で馬鹿馬鹿しいものには手を出させない、という子どもの価値観完全無視型の親でした。結果的には有効と言えば有効なんですけど、なんかちょっと物足りない人でした。勿論、玩具を買い与えてくれないというわけではなかったんですけど。

 

メニューを見ていて「あ。これ食べようかな」と言えば「それおいしくないよ」と。じゃあ「これ食べようかな」と言えば「それもやめときな」と。そんな問答が続き、しまいには彼女の味覚に合わせた食べ物しか注文していないという惨状。なんですか、僕の味覚は、あなたの、味覚ですか。それ違う。とても違う。

 

子どものそれは、親のそれとは違うんです。

 

 

親のそれから脱した時、ようやく子どもは一人の人間になれるのかも知れません。 

僕は母親の希望職種とは違う職種を希望しました。そして色々な経過があって、結果的に「のぶくんが一番幸せならそれで良いかもしれない」という位置に立ちました。

子どもが一人の人間になった時、親もようやく一人の人間になれるんだと思います。

 

 

 

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